「零一、あの子とはもう、やったのか?」
ジャスが流れる落ち着いた空間に突然、くぐもった声と噎せて激しく咳込む音がした。
零一と呼ばれた声の主は質問した相手を睨みつけて言った。
「益田っ!いきなり何を言い出すんだ?」
「おぅ?おまえ、やるの意味は分かってるんだな?感心、感心。」
益田と呼ばれたこのジャズバーの店主はニヤニヤと笑いながら彼の友人、氷室零一の動揺する様子を楽しんでいた。
「当然だ。知識としてだが…コホン、そんな事はどうでもいいっ!何故、おまえは臆面も無くそんな事を聞けるんだ!?」
「…知識としてねぇ…」
益田はニヤニヤ笑いをしながら氷室に尋ねた。
「もうすぐ、おまえの誕生日だろ?でさ、あの子が頭にリボンなんか付けてさ、零一さん私がプレゼントです!って言われちゃったらどうするんだよ?」
「益田…おまえの頭は一度、医師に診て貰った方が良いと思うが?」
「分かってないなぁ…零一君は。誕生日って記念だろ?そういう日は女の子って大胆になるんだよ。よかったなぁ零一。おまえもこれで男になれるぞ?」
「フッ…くだらん。他人はどうかは知らないが、彼女にはあり得ない事だ。その様な愚かな人間では無いからな。」
キッパリと言い放つ氷室を見て益田は上を見上げて溜息を漏らし従業員準備室に向かって声をかけた。
「だってさ、澪ちゃん?」
益田に声をかけられてまだあどけなさが残る顔付きの女性が出てきたのを見て氷室は一瞬、驚き思わず叫んだ。
「き、君はこんなところで一体、何してるんだ?ここは未成年者が立ち入って良い場所では無いと以前言っただろう?」
「…えっと…マスターさんに相談をしに来ていたんです。」
氷室の気迫に戸惑いながら彼女は答えた。
「済みませんでしたっ!失礼します!」
彼女は氷室にペコリと頭を下げて夕闇の中、外へと駆けだしていった。
「ま、待ちなさいっ!」
氷室の制止も聞かずに飛び出していった彼女と氷室を見ながら益田は彼に言った。
「…澪ちゃんさ、おまえの事で相談しに来てたんだよね。」
「俺の事?一体なんだ?」
「誕生日プレゼント…おまえ、今まで教師を理由に受け取るのを拒否してたんだって?だからさ、教師じゃあなくなったおまえになら貰ってもらえるって彼女、目をキラキラさせながら聞いてきたんだよ?マスターさんなら零一さんの好きなもの知ってますよね?って。」
益田は溜息をついて氷室を見つめた。氷室は席を立ち上がりそのまま無言で出ていった。

公園の半ば程に進んだ彼の耳にはブランコを漕ぐ音が聞こえた。
彼がブランコの方に目を凝らしてみると探していた相手がブランコに座り俯いていた。
「ここに居たのか?」
安堵の表情で駆け寄る氷室を彼女は沈んだ表情で見つめまた俯いた。
「先程は、怒鳴ってしまいその済まなかったな…。」
「…いえ、わたしこそ済みませんでした。叱られて当たり前の事をしたんですし…。」
顔を上げた彼女の表情を見て氷室は苦しくなった。
「…泣いていたのか?」
慌てて首を振り否定する彼女を氷室は思わず抱きしめた。
「…君を泣かすつもりは無かった…済まない。」
彼女は黙って氷室の胸に顔を幸せそうに埋めた。
「不安なんです…。」
彼女は顔を埋めたまま呟いた。
「不安?何故だ…」
氷室の問いかけに彼女は顔を上げて真っ直ぐに彼を見つめ言った。
「だって、わたし、大好きな人の事を全然知らないんですよ?」
氷室は自身の顔が赤くなっていくのを感じた。
「そ、それは君が聞かないからだろうっ?」
「聞いても教えてくれないじゃないですか?」
彼女はぷくぅっと頬を膨らまして反論をした。
「趣味も好きな食べ物も好きなタイプの事だって、聞いたのにはぐらかすのは零一さんじゃないですか?」
氷室は彼女の滅多に無い反論に驚き言った。
「あれは…教師と生徒だったからであり…今なら何でも答える用意はある。…コホン、何を聞きたいんだ?」
「なんでもですか?」
見上げる彼女の目を見つめかえして
「…そうだ。」
「…わたしって魅力ないですか?」
街灯の明かりに照らされてはっきり氷室の目に映る彼女の瞳は涙で潤み、その頬を伝っていった。
「…魅力がないから…ってなっちゃんが…
だから…。」
氷室は一瞬、思考回路を停止させたがゆっくりと起動させて彼女の涙をその指先で優しく拭い更に抱きしめた
。彼の声も微かに振るえ言葉にならない言葉を紡ぎ出す…
「…済まない、君がそんなにも…
思い悩んでいた事を私は知らなかった…
…まだ、君は少女だと思ってはいたが…
君は…もう女性なんだな…。」

「知らなかったんですか?わたしはいつまでも零一さんの生徒じゃないんですよ?」
いたずらっぽい笑みを浮かべる女性を氷室は愛おしく思い更にきつく抱きしめた。
氷室の胸に顔を埋めて安らいだ表情をし幸せそうに微笑む彼女は突然、氷室の首に腕を回した。
突然の事だった…
氷室の唇に柔らかい感触が触れそして離れていった。ほんの数秒間の軽いキス。
「き、君は何を?」
「だって…零一さんからは…してくれないじゃないですか。」
唇をぷぅと膨らませて反論する彼女に氷室は顔を赤らめて言った。
「誰も…しないとは言っていない…
ただ、物事には順序があるのであって…しかし、君は…」
氷室は彼女の肩に両手を添えてゆっくりと顔を近付けていった。彼女はそれに応える様に瞳を静かに閉じた。
鼓動が速まり喉が乾くのを感じながら氷室は唇を重ねた。ただ重ねただけの口づけはお互いを確かめるかの様に長く続いた。
欲しかった温もりを感じながら二人は唇を重ね続けた。数分後、名残を惜しむかの様にゆっくりと離れていった。
顔を見合わせてどちらともなく笑いだした。
「不安は解消したのだろうか…?」
「はい、おかげさまで!」
にっこりと満面の笑顔で応える彼女を見て氷室は笑いかけた
「そうか、では送っていく。もう、遅い時刻だからな。今日は徒歩でだが…。」
「問題ないです!」
氷室の差し出す手を握り彼女は嬉しそうに応えた。
「では、帰るぞ。」
「はいっ!」
幸せそうな二人のこれからを祝福するかの様に幾千の星が瞬いていた。


-----------------------------
11月6日、日曜日、家事一般を滞り無く済ませた氷室はソファに身体を沈めくつろいでいたが突然の来客の知らせに玄関へと向かった。
モニターに映るのは紙袋を抱えた馴染みの親友の姿だった。
「今、解錠する」
オートロックを外しドアを開けると親友の陰に隠されていた様にひょっこりと女性が顔を出した。
氷室の困惑する表情を楽しそうに見ながら親友は言った。
「澪ちゃんとは途中で会ったんだ。零一の家を探してたみたいだからさ。
連れてきたんだ。」
見ると不安げな表情で氷室を見上げる彼女は卒業名簿を手にしていた。
(確かに卒業名簿には全教員の住所も記載されてはいるが…全く…君は)
氷室は柔らかい笑みを浮かべて二人に中に入る様に促した。
二人を中に招きリビングへと案内すると氷室は座る様に促した。
「で…突然の訪問の意図はなんなんだ?」
紅茶の用意を手際よくしながら氷室は二人に問いかけた。
「今日は零一くんの誕生日だろ?お祝いに来たに決まってるだろ?ねっ、澪ちゃん?」
親友の彼女に対する妙に慣れ慣れしい態度に苛立ちながら氷室は紅茶を二人の前に置いた。
(いつから益田と彼女はこんなに親しい間柄になったんだ…)
来た時からソワソワとしていた彼女が氷室に尋ねた。
「あの…お台所お借りしてもよろしいでしょうか?」
「台所?問題無い。しかし、勝手は分かるのか?」
「はい、なんとか…なると思います。」
彼女は紙袋を抱えて台所へと消えていった。
彼女に手を振り見送った親友はいきなり真面目な顔をし
「零一、おまえは今、すばり嫉妬をしている!」
「な、何をいきなり…」
「おまえらさ、あの日あれからなんかあったんだろ?澪ちゃんすっごく嬉しそうに報告してくれたよ!」
「報告!?確かに彼女とは進展はしたが…それはお互いの同意の上であり強制はしていないっ!」
「そっか、進展したんだ。
おめでとうな、零一。」
親友にまたカマかけられた事に気付いて氷室は睨み付けた。
親友はそんな相手に気にする事も無くニヤニヤ笑いながら続けた。
「で、何を具体的にしたんだ?お二人さんは?」
「おまえには関係無い事だ!」
「そっか、じゃあ、澪ちゃんに聞いてみるよ」
親友は意地悪く笑い氷室に言った。

「彼女には尋ねるなっ!
…コホン、…をした…。」
氷室は耳まで顔を真っ赤にし視線を逸らしながら小声で言った。
「とうとうヤったんだな!
おめでとう!零一!おまえもやっと男になれたんだなぁ!」
氷室は親友の誤解にすぐに気付いて慌てて訂正をした。
「違う、進展とは、それでは無いっ!キスをしただけだっ!」
「なんだ…勿体ぶって話すから…てっきりヤったんだなって思ったよ。
本当、可愛いな、おまえは」
「可愛いってどういう意味だ?」
気色ばむ氷室を楽しそうに見ながら親友はいきなり立ち上がった。
「じゃあ、俺は帰るよ。お二人さんの邪魔はしたくないしね。」
「益田…もう少しここに居てはくれないだろうか?」
氷室は親友を見上げる様に尋ねた。
「今、彼女と二人きりになったら多分…自制が利かなくなる。」
視線を逸らし俯く氷室の肩を親友は励ますように叩いて、
「好きなんだろ?じゃあ自然な事だと俺は思うよ。
おまえがさ、何をそんなに遠慮してるのか俺には分からないけどさ、
まあ、頑張れよ。じゃあ。」
親友は氷室の答えを待たずに玄関へと足早に去っていった。

「マスターさん、帰られちゃったんですね?」
突然の声に驚き曖昧に氷室は答えを返した。
「ああ…帰った様だな。」
「私もお邪魔でしたら帰りますけど…せっかくの休日にいきなり来ちゃいましたし」
申し訳なさそうな彼女の声に氷室は慌てて訂正を返す。
「問題無い。たまにはこういった休日もに悪くは無い。」
「本当ですか!よかったぁ…」
サラダボールを手にエプロン姿の彼女が嬉しそうに姿を現した。
「すぐに出来ますから待っていて下さいね!」
彼女はウキウキとテーブルにサラダを置いて次の料理に取りかかりに行った。
「ま、待ちなさい。私も手を貸そう。勝手が違うから何かと不便だろう?」
氷室は立ち上がり彼女を追って台所へ向かって行った。
台所の様子に氷室は驚き目を見張った。鍋からは美味しそうな湯気が立ち上りフライパンがジュウジュウと音を奏でている。普段、活気無い彼の台所は色とりどりの音と香りに包まれていた。
「この皿は?」
見慣れない模様入りのスープ皿に気気付いて彼は尋ねた。
「あっ、これですか?家から持って来たんです!」

(大荷物を抱えて君は住所録を確認しながら…こんな俺の為に…)
「ありがとう。」
氷室は思わず彼女を後ろから抱きしめた。突然、彼に抱きしめられた彼女は驚きつつも嬉しそうに彼の胸の中に身体を沈めた。
「大好きな人の誕生日を私が勝手に祝いたいだけなんです。だから、お礼なんかいりません。後、少しで用意出来ますから、零一さんは向こうで待っていて下さい。」
氷室に笑いかけて彼女はするりと腕から抜け出してまた、せわしなく支度を始めた。
彼女に半ば追い出される形でリビングに戻った氷室は携帯の着信に気付いて確認した。
発信者…益田義人…件名…HAPPY BIRTHDAY!
俺からのプレゼントは澪ちゃんだ。リボン忘れたけどさ!じゃ頑張れよ!
(…ありがとう)
氷室は苦笑いを浮かべ携帯を閉じた。


(しかし、落ち着かないな…
生徒が自宅に来るのはこれが初めてでは無いだろう?
いや…彼女は正しくは元生徒だ。
待て…異性を自宅に迎えたのは初めてだ…)
「…問題無い。俺が理性を保ち続けさえすれば…
今までも出来たんだからな…。」
氷室は自身に言い聞かせる様に呟き、その件から気を逸らす為にリモコンを手にし普段は滅多に観る事の無い時間帯にテレビを点けた。
「…………!!!」
彼は慌てて電源をオフにしテレビを睨みつけソファに凭れかけ天井を仰ぎみた。
(最近の世間の風潮はどうなっているんだ?
昼間から茶の間にあの様な映像を提供するものなのか?
青少年の育成に問題あるとは思わないのか?)
氷室は頭の中から今観た映像を払拭させようと瞳を閉じて数学の公式を思い浮かべた。
数式を何問か頭の中で解いて彼の表情は次第に落ち着いていった。
(次は…何だこの頬に触れるサラサラとした感触は…)
「零一さん?支度出来ましたよ?寝ちゃったんですか?」
「…支度?うぉっ!!!」
瞳を開けた彼は眼前間近で彼を覗き込む様に見つめる彼女に驚き思わず身を引き姿勢を崩しソファに倒れ込んだ。
「どうしたんですか?」
氷室を気遣うように首を傾げて尋ねる彼女を見見上げる彼は上擦った声音で彼女に言った。
「…問題無いっ!少々、考え事をしていただけだっ!!
支度が出来たのか?
大変結構…」

起きあがろうとした氷室に彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべて膝を折り彼の両頬を掌で包み笑いかけて顔を近づけてきた。
額に触れる柔らかな感触に彼は思わず低く唸り身体を強ばらさせ瞳を閉じた。
クスクスとその状態を楽しむ彼女に気付き氷室は顔を赤らめて再度起きあがろうと試みたがいきなり全体重をかけられて更にソファに沈み込んだ。
真上には小悪魔的表情を浮かべる彼女が氷室を見下ろしていた。
「き、君は一体何を…」
「何って…眠れる零一さんを起こそうかなって。」
クスクス笑いながら顔を近付けて耳元で囁きかける彼女に氷室は更に顔を赤らめて理性を保ち続けようとした。
「…私は眠ってなどいないっ!」
上擦った声音で反論する彼の耳元で彼女は少し低いトーンで囁いた。
「眠れる野生を呼び覚まそうとしてるんですけど?」
「………………!!!!」
「それとも…私ってそんなに魅力無いですか?」
そのまま氷室の胸に顔を埋めた彼女は彼に恨みがましげな視線を送ってきた。
「いや、君は魅力的だ…
しかし、私は君と違い成人した人間だからな。
常に良識ある行動を…。」氷室の必死の弁明は唇に触れる柔らかな感触に遮られ言葉にならなかった。
「良識って何ですか?
好きな人に触れたいと思うのは良識から外れた事、何ですか?
短いキスの後、彼女はそのまま氷室の胸に顔を埋めて黙り込んだ。
「聞きなさい…」
氷室の諭すような口調に顔を上げた彼女は潤んだ眼差しで彼を見つめた。
「また、泣かせてしまった様だな。済まない…」
氷室は彼女の柔らかい髪の毛に指を埋めて安心させる様に梳いて苦笑いを浮かべた。

「君を失いたくないからだ…
愛しているからこそ大切にしたい。
君の将来に傷をつけたくないんだ。
君にはまだ未来がある…心変わりだってあるかも知れないだろう?
君と同じ立場の共に歩いてくれる男性が現れるかも知れない…
君の負担になりたくないんだ。
正直に言おう。
俺はただ…恐れているだけだ…
君に更にのめり込んでしまい兼ねない自身にだ。
今ならば、まだ自我を保つ余裕はある…
君を笑って送り出せる筈だ…。」
苦渋に満ちた表情で瞳を閉じた氷室の頬を滴が伝っていった。
「…あり得ませんから…
絶対に…だから…そんな事を言わないで…下さい…。」
瞳から涙を溢れさせ氷室を覗き込む彼女は悲痛な表情を浮かべ彼を見つめた。
氷室は彼女の背中に腕を回して彼女の身体を包み込む様に抱きしめた。
「済まない…」
肩を小刻みに震わせてしゃくり上げる彼女の身体を抱き起こしながら氷室は身体を起こし姿勢を正し彼女をまっすぐ見つめた。
「年齢の差に負い目を感じ不安を常に持っていた…
いつの間にか疑心暗鬼に陥っていたようだ。」
「年齢なんて…気にしていません…私は…氷室零一という男性が好きなんです。」
「ありがとう…しかし、本当にいいのか?」
「お願いします…。」
瞳を閉じて顔を近付けようとした刹那、彼らは異臭に気付いた。
「何やら…焦げ臭い臭いがするが…。」
「あっ!お鍋かけっぱなしだった!」
転がる様に氷室の傍から離れて台所に走り去っていった彼女を呆然と彼は見送った。
「あーっ!焦げてるぅ!」
氷室は笑いを堪えながら台所に向かっていった。
(ゆっくりと始めていけばいい…始まりもゆっくりだったからな)



HAPPY BIRTHDAY!零一さん!
-END-