季節はもう春。はばたき学園数学教師、氷室零一は息を切らせながら廊下を走っていた。
普段、節度と勤勉を主じ、生徒達に恐れられる規則を尊ぶ彼が廊下を走る等、今迄無かった事だ。
「ここにも…居ないのか…。」
氷室は誰かを探していた。
卒業式後の学園内は名残を惜しむ生徒達も少なく人影も既に疎らだった。
誰も居ない図書室で氷室は思案を巡らしていた。
(教室、屋上、校庭、音楽室。彼女の居る可能性の有る箇所は全て確認した筈だ。)
「…帰ってしまったのか…。私は君にやっと、この事象について説明する事が出来るのに。」
氷室自身にさえ理解説明出来無かったこの感情を…。
彼女…は今日迄は彼の教え子だった。氷室にとっては優秀な自慢の生徒…始めはそうだった。しかし今は…
「私は…。君を失いたく無いんだ。」
氷室はいつの間にか学園の外れに有る教会の前にきていた。彼は苦笑した。
(この私が神を頼りにするとはな。)
氷室は数学教師である故に常に現象と概念のみで結論を出していた。そんな彼は神の存在を否定していた。今迄の彼だったらだ…。
氷室は何かに誘われるかの様に教会の入口へと歩みを進めた。彼が扉に手をかけると軽く軋むギィーという音と共にバタンと扉は内側に向かって勢いよく開いた。
教会の内部は春の陽射しが差し込み、色とりどりのステンドグラスが輝いていた。その眩い光の中に彼女はいた。
「どうした。ここは立ち入り禁止の筈だ…。」
氷室の言葉にぺこりと頭を下げ急いで立ち去ろうとする彼女を彼は制止した。
「待ちなさい!そうじゃない。…私は…君に話がある。」
(そう、伝え無ければならないんだ。思いを伝える事の重要さは君から教えて貰ったからな。例え、君に伝わらないとしても…何もしないまま君を失うよりは…)
「少し長くなるかもしれないが聞いていて欲しい…」
氷室自身、理解し得なかったこの感情を彼は彼女に説明し、ずっと気付いても気付かない様にしていた気持ちを彼女に伝えた。
「つまり…私は君を愛している。君という現象を俺という概念は求めているんだ。君を失いたくないんだ。」
彼女のキラキラした瞳から涙が零れ落ち、光の中に溶けていった。彼女はくしゃくしゃの顔に微笑みを浮かべ氷室を見つめた。
氷室は少しぎこちなく彼女の頬に伝わる涙を指で拭い取り彼女に感謝を述べた。「ありがとう。君は無色透明な私の世界に彩りを与えてくれた。」
彼は喜びに更に涙を溢れさせる彼女に手を差し伸べ優しく笑いかけた。
「来なさい。他にも伝えたい事が山ほどある。
ドライブをしよう。」

氷室と彼の元生徒は微笑みながら手をしっかりと繋いで教会を後にした。


数時間後はばたき山に続くスカイラインの途中に在る丘陵に氷室は元教え子と来ていた。
はばたき市が一望出来る氷室のお気に入りの場所…
夕暮れ前の風が心地良く彼は愛車に少しもたれ掛かる恰好で元教え子が肩迄の髪を靡かせて嬉しそうに景色を眺めているのを見守る様に見つめていた。
卒業式後に元教え子である彼女に…彼はようやく想いを伝える事が出来た。
氷室の名を呼ぶ、彼女の声。教師としてではなく一人の男性として。
また、彼も彼女に対して生徒としてでは無く一人の女性として応えていた。
空は夕暮れ時の光により不思議な色に変化していく。
ピンクからオレンジへと…
まるでこれからの彼らを祝福するかの様に黄金の光が二人を包んでいく。

「…車内にて行き先の希望について尋ねた際に君はここを希望したが、それは何故だ?」
「始まりの場所だったからです。」
彼女はにっこりと微笑み答えた。
「始まりの場所?君の言っている事は抽象的だ…もう少し分かり易く…。」
彼女は困惑する氷室に悪戯っぽい笑みを返して
「そうですね…。以前、連れてきてくれた時に夕焼けをバックに振り返る零一さんに恋したからです」
彼女は頭一つ分以上は身長差のある彼に合わせるかの様につま先立ちになり顔を赤らめて困惑している彼を見つめた。
「分かった!分かったから…。」
キラキラした彼女の瞳は氷室を映していた。彼の深い緑色の瞳もまた彼女を映していた。
と、彼女は無理な姿勢を取り続けてた事によってバランスを崩して氷室の懐に倒れ込んだ。
彼は彼女を受け止めて抱きしめる様な恰好になった。
既に氷室の思考回路は停止していた。端正な彼の顔は耳まで真っ赤になり、彼女の身体を支える指先は彼女の温もりを感じて微かに震えていた。
氷室が再起動すると彼女の彼を混乱させる眼差しがすぐ目の前にあった。
彼女はいつになく真剣な表情で彼を真っ直ぐ見つめていた。氷室は何も言えずに、ただ見つめ返し、彼らはしばらく見つめあった。
彼女は静かに瞳を閉じた。
一瞬また彼の時は止まった。口の中が渇き、心臓は早鐘を打つ。世界が揺れた様な気さえした。咳ばらいをして氷室は彼女の紅潮した頬を震える指先で触れ、静かに瞳を閉じ、その顔を近付けていった。










突如、氷室の携帯が鳴りだした。彼は慌てて彼女から離れて携帯を取り出した。
「はい。氷室です。」
「氷室君、天之橋だ。先日の課外授業のレポートだが、期日をもう少し延ばしてはくれないだろうか?」
「お断りします!明日の提出期限迄に提出して頂けられ無いのであればプラス10枚、反省文を含め併せて20枚提出して頂きます。又、期日を一日過ぎる度にプラス10枚加算させて頂きます。以上。」
氷室は、いつにも増して理事長に冷たく言い放ちそのまま携帯を切った。既に魔法の時間は過ぎ去り夜の帳が近付きつつあった。氷室は深い溜め息をつき、
「…コホン。春とはいえ夜はまだ冷える。知人の店で何か温かいものでもとる事にしよう。」
微妙な緊張に包まれたまま彼等は車にへと戻っていった。



-------------------------------------- 

(最近、元気が無かったな…零一…)
JAZZが流れる落ち着い佇まいの店カンタループの店主、益田義人は学生時代からの親友の事をふと思った。
(今日は3月1日か…もう、春か…)
カレンダーに何気に目を向け、彼は又、開店準備へと戻る。まだ時間が早いのか人通りも少ない。
ふと、店のドアが開く。
「いらっしゃい!…なんだ、零一か。」
「なんだとは、なんだ?客に対しての態度として感心出来かねる。」
彼の親友、氷室零一はいつも通りに言葉を返す。
だが、いつもと違う何かを感じる…。
「 …コホン。入って来なさい。」
ドアが開き、入ってきたのは何度か彼の親友が連れて来ていた少女だった。
彼女は制服姿で小脇には卒業証書を抱えていた。
「注文はレモネードだったな、で、彼女は、生徒だったな?」
益田は少しからかい口調で親友のいつも通りの反応を待っていた。
「注文はレモネードで間違いない。だが…。彼女は今日、はばたき学園を卒業した。だから生徒では無い。」
「そっか。じゃあ、何だっていうんだよ?」
「コホン。俺の大切な恋人だ。」
目線を下に落とし、顔を赤らめる。そんな親友を見つめ傍で優しく微笑む少女。 (そっか…。零一を変えたのはこの娘か。)
「良かったなあ。零一。」
「…ああ。」
なんだ、今日はやけに素直だな?
「…たまにはな。」
「よし、今夜は俺も混ぜてくれよ。レモネードで乾杯しよう。彼女の卒業と、不器用な親友の前途を祝って!」
益田はそっと表の看板の明かりを消してレモネードを3人分用意し始めた。