珍しく放課後に予定の無い私は帰宅をするべく職員用駐車場へ足早に向かっていた。
遠くから陸上部の顧問の怒号が聞こえる。帰宅する生徒たちは私の姿を見るなり軽く会釈をし逃げる様に立ち去る。
私は更に歩調を早め中庭へと向かった。
職員用駐車場へ向かうのに中庭を経由した方が近道になるからだ。
中庭には人気は無く閑散としていた。
まあ、下校時刻にこの様な場所で談笑している生徒が居るならば即、指導をするだろうが。
私は黙々と鞄を小脇に抱え中庭を通り過ぎようとした。その時、誰かが私を呼ぶ声を聴いた様な気がし、私は立ち止まった。
周囲を見回しても誰も居ない。
「空耳か。」
私は呟き立ち去ろうとした時にまた、“零一”と名を呼ぶ声を耳にした。
「誰だ?葉月か?校内では氷室先生と呼ぶようにと言っているだろう?」
私は声のした方へ向かいながら思わず叫んだ。
彼は恋人ではあるが学園内では生徒だ。然るに生徒が教師の名を呼び捨てにするなど許されるべき所行だからだ。
どうやら彼は中庭の校舎の陰にいる様だ。座り込んで何やら私に気付くことなく楽しげにしているようだ。
「零一、こら、やめろ…くすぐったい。」
彼は何をしているんだ?一人で私の名を呼びながら…彼も健全な男子だ。もしや…
「こら、葉月。学園内でその様な行為をするのはやめなさいっ!」
私は慌てて彼に向かって思わず怒鳴った。
突然、怒鳴られた当の本人は私に気付いて複雑そうな顔を浮かべすぐに嬉しそうに笑いかけた。
「零…じゃなくて氷室先生。どうしたんですか?」
尋ねる彼の腕の中にはフワフワとしたものが動いていた。
どうやら彼は自身を慰めていたのではなく彼の腕の中にいる対象に語りかけていたようだ。
私は自身の誤解に気恥ずかしい気持ちになり、その場から立ち去りたい気持ちになった。

「あ、ごめんなさい。こいつ…この学校に住み着いているヤツ…なんです。」
葉月は私が黙り込んでいるのを小動物持ち込みした事に対して私が怒ったのだろうと誤解したようだ。
「学園内に…動物居たら、ダメ…ですよね?」
彼は悲しそうな表情を浮かべながら腕の中にいる対象をギュッと抱き締めて私に尋ねた。
本来ならば教師として毅然たる態度にて然るべき手段を講じるべきだが、彼のその表情は…私の判断を鈍らせるようだ。
彼の手から今、小動物を奪ったら彼はどの様な顔をするのだろう。俺には出来ない。
「氷室…先生?」
黙り込んでいる私を不思議そうに見つめる明るい緑色の一対の眼差しが不安げな色を浮かべる。
「ああ。本来ならば学園内に小動物は立ち入り不可だが。勝手に入ってきてしまうものに対して対策はとれないからな。君が持ち込んだというならば君に対して指導をしなければならないが。」
「じゃあ、こいつ、このまま…居てもいいんですね?」
「私の一存では決められないが。現時点では何の対策も出来ないからな。」
私は思わず苦笑を浮かべながら彼に言った。
「ありがとう…ございます。対策が…ないのなんて、本当は嘘…ですよね?俺がこいつと…離れたくないから…気を使って…くれてるん…だろじゃなくて…ですよね?」
「全く君には全て見透かされているんだな?ああ。以前にも言ったが君の悲しむ顔を見たくは無いからな。」
確かに彼の言う通りに対策が無い訳では無い。野良猫ならそれなりの機関に回収してもらう手段もあるからだ。
しかし、今の私にはそれは言い出せない。以前の私なら“規律”を掲げて何の躊躇もなくその手段を実行しただろう。例え、その生徒に嫌われようとしてもだ。
君が俺を変えてしまったようだな。葉月…。
「良かったな…零一。」
葉月は嬉しそうな顔をして微笑んだ。

「零一?その小動物、猫の名前なのか?」

「はい。こいつ、氷室先生…みたいだから。」

「俺に似ているのか?」
私は思わず自身に似ているという猫に興味を持ち彼の隣に座り込んだ。
「そう…なんだ。こいつ、俺が悲しい時…慰めてくれるから。」
葉月は愛おしそうに腕の中にいる猫の頭を撫でて微笑んだ。
「そうか。それは良かったな。」
悲しい時があるならば猫でなく俺を頼ってくれれば…という言葉を飲み込み私はぎこちない笑みを浮かべた。
「でも…今はあなたがいるから…寂しくない。」
葉月は私の気持ちを見透かしたのか私の肩に頭を甘えるようにもたせかけてきた。
「全く。私より君の方が猫に似ているのでは無いのか?気紛れで甘え上手で。」
私は溜息混じりに呟きながら彼の頭を軽く撫でた。
「別に…いい。俺、猫、好きだから。」
「好きとか嫌いとかは別次元の問題とは思うが?」
「そう…なのか?」
不思議そうに私の顔を見上げる一対の眼差しに私は思わず笑いが込み上げてきた。
「何か、変な事…言いましたか?俺…。」
「いや、問題ない。」
私は笑いを堪えながら彼に答えた。彼はまだ何か言いたげに見つめていたが突然、腕の中に抱いていた猫を抱き上げ私の膝の上に乗せてきた。
「葉月?」
「猫、嫌いですか?」
「いや、好む好まないでは嫌いという訳ではないが…。」
「じゃあ、抱いてあげて…ください。零一も…あなたに抱かれたいと…思ってるし。」
当の猫は私の膝の上できょとんとした大きな瞳で見上げるように見つめていた。
「やはり、私にではなく君に似ていると思うのだが…。」
「俺は…あなたに似ていると思う。だって、傍にいてくれるだけで…安心するから。それに、こいつ…他の兄弟たちが…ケンカ始めると、まっさきに…止めるんだ。弱いのに。曲がった事が大嫌いで…似てますよね?」
葉月は悪戯っぽい笑みを浮かべながら猫の頭をくしゃっと撫でた。
「氷室先生と…同じで可愛いヤツなんだ。」
「だから可愛いという形容詞を俺に対して使うなと言っているだろう?」
「照れてるん…ですか?やっぱり…可愛いな。」
「こら、教師をからかうんじゃないっ…っ!」
突然、重ねられた彼の唇に遮られて私は言葉を失った。唇が離されて私は思わず彼を怒鳴りつけた。
「学園内ではそういう行為はやめなさいと言った筈だ。」
しゅんとした表情でごめんなさいと呟くように謝る彼を見ると私の怒りは消えていった。全く、我ながら甘やかし過ぎているようだ。しかし…

そんな自身も悪くはないと思う自身もいるのも事実だ。
彼が幸せであればそれで良いと心から願う自身がだ。
幸せに出来る対象が俺自身なら更にこの上ない喜びだ。
しかし、今は教師と生徒だ。故に甘やかしは禁物だ。然るべき指導で教え導かなくてはならない。
それが彼の担任である俺の務めであり義務だからだ。
「氷室先生?怒って…ますか?」
不安げに私を見つめる一対の眼差し。
全く。私は彼のこの眼差しには抗えないようだ。
「いや。しかし、今後からは気を付けるように。」
「はい。氷室先生は…好きな動物…いるんですか?」
「好きな動物?好きとは違うが興味のある動物ならばいるな。」
「興味ある?…なんですか?」
「爬虫類だ。特に蛇に対して一種のシンパシーを感じるんだ。」
「蛇に…ですか?」
「ああ。将来的に飼育出来る様であれば一度は飼育してみたい研究対象だな。」
「………。」
葉月が私から身体を離すのを気付いて私は首を傾げた。
「どうした?」
「別に…。」
「もし、飼育するなら君の様に愛しい対象の名を付けても悪くはないかも知れないな。」
私は膝の上の猫に視線を移し呟くように言うと葉月は首を否定的に振りながら“やめてください”と呟いた。
「しかし、君も猫に私の名を付けているだろう?私が蛇に君の名を付けても問題ないのでは?」
「…確かに…そうだ…じゃなくて…そうですけど…」
返答に困った葉月は口ごもる様に答える。常にポーカーフェイスな彼の困った様な拗ねた顔を見るのは実に面白い。
「冗談だ。蛇に君の名を付けようとは思わない。」
「氷室先生の…意地悪。」
拗ねたような顔をしたまま呟き彼は私に抱きついてきた。
「だから、学園内では控えなさいと言っているだろう?」
「じゃあ、学園外なら…良いのか?」
少し意地悪そうな笑みを浮かべながら見つめる相手に私は思わず頷いた。
彼がこの様な表情を浮かべた時はよからぬ事を思いついた時だからだ。故に反抗せずに従うのが望ましい。
「了解。」
彼は立ち上がり私の身体をいきなり抱きかかえた。
「こら!了解と言ったのだろう?」
「だから、場所…移動するんだろ?俺、我慢の限界だから…早く…したいんだ。」
「我慢の限界とは?こら、おろしなさい!葉月っ!」

「一般的な…健康な男子…ですから。それに姫を送っていくの…王子の役目だし。」
「私は姫ではないっ!それに、このような状態を誰かに見られたらどうするんだ?」
「姫だろ?少し大人しくしてろ…じゃなくてしていてください。」
中庭を突っ切って職員駐車場に立ち入ると丁度、同じく帰宅しようとする理事長の姿が見えて私は狼狽した。生徒に抱きかかえられている自身の状態は明らかに異常だ。
「おや?氷室君に君は確か氷室君のクラスの生徒さんだったね?」
「はい。葉月…珪。氷室先生のクラスです。先生、気分が悪いから…俺が送っていくところ…です。」
「ふうむ。先生想いの生徒さんなんだね?葉月君は。では気を付けて帰るんだよ。」
「はい。理事長先生も…気を付けて下さい。」
理事長が車に乗り込み走り去ると葉月は私をようやくおろした。私は葉月の意外な面を見、しばらく言葉を失っていた。
「氷室先生、早く…帰ろう。」
葉月に腕を引っ張られて私は物思いから現実に戻された。
理事長は葉月の言葉を疑う事無く信じたのだろう。別に問題はないか。
「ああ。では帰宅をするとしよう。では乗りなさい。」
「はい。」
葉月が乗り込むのを確認し私は車を発進させた。





同時刻。海岸線を走る車の中で物思いに耽る初老の男性が一人。
「噂で耳にはしていたが、まさか本当に、氷室君がね。まあ、愛には年齢も性別も関係ないさ。さて、私は氷室君のクラスのレディ候補性のあの子をまたアフロディーテ号のクルージングへ誘うとするかな。しかし、気付いていないのは当の本人たちだけみたいだね。私も彼女を誘う時には気を付けないといけないな。恋は人を狂わせ愚かにするからね。しかし、恋するときめきがない人生は実に味気ないものだよ。さあ、若者たちよ。大いに恋をし悩むと良い。」



全てを悟りきった理事長天之橋一鶴は不気味な笑みを口元に浮かべつつハンドルを切り海岸線の夕闇へと消えていった…