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「では、失礼します」
はばたき学園理事長室のドアを開け氷室は理事長室を後にした。
立ち去る氷室の背中に視線を向けたまま、理事長天之橋は深い溜息をついた。
数時間前、天之橋は氷室を理事長室に呼んだ。
模範的で、教師として非の打ち所がない、
生徒に対し私情を一切、持ち込まず極めて冷静沈着に生徒に接する……
淡白過ぎる、もしくは冷徹に見えるといった意見もあったが氷室は問題を起こすような教員ではなかった。
しかし、天之橋は最近、氷室がとある生徒と懇意にしているという噂を耳にした。
彼としては別に教師であろうとも一人の人間。
だから生徒と恋愛をしても仕方がない当然だと考えていた。
今回、氷室を呼び出したのも噂が真実かを知りたかっただけであり氷室を糾弾するつもりは毛頭無かった。
しかし結果は理事長に尋ねられた氷室が一方的に謝罪をし辞職も辞さないという状態になってしまった。
天之橋は瞳を閉じ辞職を願い出た氷室の顔を思い出す。
生来、色が白い白磁のような彼の面差しは蒼褪め、痛々しいくらいだった。
唇は震えていたが紡ぐ言葉には揺ぎ無い決意が込められしっかりとした口調で彼は天之橋に言った。
「私は教師としてあるまじき行動をとりました。
私自身でも間違っていると理解しています。
しかしながら……私は彼を、葉月珪を失うことができません。
然るに教職を辞めさせて頂きます。
明日、辞表を持参します」
深々と頭を下げる氷室に天之橋はかける言葉が一瞬、見つからなかった。
「氷室君、なにも辞めなくとも……」
いや、違うんだ。そういうことではなくてね、と言いかけた天之橋の言葉を遮り氷室は言った。
「いいえ、噂になった以上、葉月にも迷惑がかかります。私が辞めさえすれば噂も消えて問題はなくなるでしょう。
では、失礼します」
「氷室君……」
氷室が退室した後、天之橋は閉ざされた扉の向こうをずっと見続けていた。
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(私たちは出逢わなければ良かったのだろうか……
君を想う感情さえ無ければ君に迷惑をかけることもないのだろうか……
あの時、君の気持ちにこたえなければ良かったのだろうか……
俺のことはどうでもいい、葉月、君が俺のせいで口さがない者たちに中傷されているのが耐えられないんだ。
俺さえ、君を……)
独り自問自答を繰り返しながら職員用駐車場に向かう氷室は校門近くに葉月が彼の名前を付け可愛がっている子猫が居るのに気付く。
真っ白い小さな子猫は車道を横切ろうとチョコチョコ歩いている。
その刹那、車が猛スピードで猫へと迫った。
氷室はなにも考えずに車道へと飛び出す。
周囲の景色がスローモーションで回りだし腕の中の小さな生命の無事を確認した後、
彼は意識を手放した。
はばたき学園校門前へ近付く救急車のサイレン音。
生徒の悲鳴。
事態を沈着させようとする教師の怒声。
腕の中の子猫の小さな鳴き声。
次第に赤く染まるアスファルト。
落ちていく西日が赤く照らし更に彼と周囲の景色を赤く染めていく・・・・・
キミヲ、ワスレサエスレバ……
仕事場でちょうど休憩中の葉月の携帯が着信を知らせ震える。
「誰だ?今、仕事中……」
モデル衣装に身を包んだ葉月は飲んでいたコーヒーのマグを置いて携帯電話を開き受話ボタンを押す。
電話を耳に押し当て不機嫌そうに眉根を顰め電話向こうの相手に文句を言おうとした彼はいつもと違い緊迫した口調の相手に黙り込んだ。
「葉月くんかい?俺、益田。
落ち着いて聞いてくれ。今、さっき零一が車にはねられて病院へ運び込まれた」
葉月は一瞬、目の前が真っ暗になったような気がした。
なんとか気を取り戻し震える声で言葉を繋ぐ。
「零一が?無事……なのか?」
「今、集中治療室で手術を受けているよ。できるだけ早く来てほしい」
「俺、すぐ向かうから。病院名、教えくれ」
「はばたき市総合病院だ。場所はわかるよね?」
「ああ、知ってる。俺、すぐ、いくから」
葉月の一連のやり取りを見ていたスタッフは事情を察して葉月を快く送り出す。
スタッフに手配されたタクシーに乗り込み、行き先を告げ葉月は震える両手を拳に握りしめ病院へ向かった。
(零一、無事でいてくれ……
零一が、生きてさえくれるなら……俺、なにも望まないから
もし、神様がいるなら……俺から零一を……奪わないでくれ)
葉月を乗せたタクシーははばたき市総合病院救急外来受付入り口に車を寄せた。
日も暮れ病院内ロビーは静かだった。
救急外来受付と表示された窓口へと進み彼は集中治療室の場所を尋ねる
場所を聞き礼をいうと彼は集中治療室へ足早に向かった。
「葉月くん。こっちだよ」
長椅子に座った見知った氷室の友人の男性が手招きをし彼の名を呼んだ。
「状態は?」
「結構、長引いているみたいだよ」
手術室の扉の上にある手術中を知らせ赤く点り続けるランプを顎で指し示し益田は力なく言った。
彼の顔は蒼褪め、両手を組み合わせポツリポツリと話し始めた
「零一ね、運ばれる時、子猫を抱いていたよ。子猫をさ、庇って車にはねられたそうだよ」
「子猫?」
「そう。真っ白い子猫」
「それ、零一だ。……零一、零一を庇ったのか」
葉月は小さく呻いて呟くように言い頭を抱えじっと手術室の扉を見つめた。
数分が何時間にも感じる、重苦しい時間を彼は耐え続けた。
手術中のランプが消え扉が開き手術着姿の医師が彼らに告げる。
「もう、心配ありません。一命は取り留めました」
葉月と益田は安堵の表情を浮かべ顔を見合わせて喜び医師に礼をいった。
「けれど今のところは意識も回復していませんのでお会いさせることができません。
ですので本日はお帰りください。
あ、身内の方はいらっしゃいますか?患者さんの今後の事についてお話が……」
益田は葉月の顔を見てから
「あ、俺、身内じゃないですけどアイツの保護者みたいなもんです」
「では、向こうで少しお話しをしても宜しいでしょうか」
「構いませんよ」
益田は不安そうな葉月の頭を軽く撫で
「入院の申し込み手続きとかだからさ心配するなよな。
ほら、零一の着替えとかを後で持ってこなきゃいけないんだからな。
やらなきゃいけないことはいっぱいあるんだからさ。しっかりしろよ?」
「そうだな、俺、しっかりする」
「よし、いい子だ」
益田は医師の後に付いて奥へと消えていった。
医師との話を終えた益田は氷室の自宅へ戻り彼の寝室にある衣装棚からパシャマ、着替えなどを用意をし始めた。
「着替え、これで足りるか……でしょうか?」
葉月もせっせと普段、氷室が鉱物採集に出掛ける際に使用している旅行鞄に着替えを詰めていく。
「まさか、アイツもこの鞄がこんな使い方されるなんて思わないだろうな。
無遅刻無欠席、皆勤賞総なめだったからな。アイツ。あ、小学校の時におたふく風邪で休んだことあったっけ」
「零一の小学校の頃、どんなカンジだった……でした?」
「アイツの子供の頃かい?今と変わらないよ。
正義感が強くて不器用なヤツだったよ。
あの偉そうな話し方も今と全然、変わらない」
「なんか、羨ましいな。そういうの。益田さんは、俺の知らない零一を……たくさん知ってるから……」
寂しげに微笑を浮かべる葉月に益田は片目を閉じにっこりと笑って言った。
「だったら、これから沢山思い出を作れば良いだけだろ?
きっと葉月君は俺よりも零一を沢山、知ることになるよ」
益田は葉月の頭をワシャワシャと撫でくりまわして鞄を持ち上げ肩にかけた。
「少なくとも葉月くんの前でだけでだよ。零一があんな笑顔をするのはさ。ほら、お姫様の元に急がないとな」
「益田さん、ありがとう……ございます」
少し気恥ずかしそうに益田の背中へ言い葉月は鞄を手に氷室の部屋を後にした。
(これから、沢山、思い出つくろう……零一と、一緒に
俺たちは、まだ始まったばかり……だから)
病院に着いた彼らは着替えをナースステーションに居る看護士へ託して益田は店へとそれぞれの帰途へとついた。
主の居ない氷室のマンションのドアを渡された合鍵で気だるげに開け普段と違い広く感じる部屋に葉月は力なく溜息を一つつき真っ暗な中、リビングのソファに腰を下ろす。
「こら、葉月、照明も点けずにどうした?」
「れ……いいち?」
氷室の声を聴いたような気がし葉月は後ろを振り返る。しかし、氷室の姿は無く葉月は溜息をつきソファに寝転がった。
「そんなところで寝ていると風邪をひくぞ?」
(寂しいんだ……俺)
「ほら、部屋に戻って、きちんとベッドで眠るんだ」
(じゃ、一緒に寝てくれ……)
「全く。君は」
氷室が困ったように苦笑いを浮かべた。
「しかし、さようならだ。葉月」
(……さようなら?零一?)
ソファから身を起こした葉月は窓の外が明るくなっているのに気付いて眩しそうに目を眇める。
「俺、眠ってた……。嫌な夢、だったな」
葉月にさようならを告げる氷室の顔が妙にリアルに鮮明に残っているのを払拭させようと彼はバスルームにシャワーを浴びに向かった。
授業が終わると葉月の足は氷室の居る病院へ向かった。
昨夜、益田と一緒に向かった時と違い昼の病院は見舞い客や外来の客で混雑している。
「零一の部屋は……」
ナースステーションで部屋の番号を聞き葉月はドアの表示を確認しながら氷室の病室へと向かう。
病室の前に立った時、ちょうど部屋から出てきた益田と鉢合わせた。
益田の表情は何故か重く沈んでいた。
「益田さん、零一、大丈夫ですか?」
「ああ、葉月くんかい?ちょっと話があるんだ?いいかな?」
「話……ですか?」
益田は頷き葉月に一緒についてくるようにと告げると歩きだした。
益田が葉月を連れてきた場所は病院内にある小さな喫茶店だった。
彼は人が少なそうな場所を見つけ葉月を先に座らせてから自らも座る。
店員が持ってきた水を一気に飲み干し益田は重い口をゆっくりと動かした。
「葉月くん、今から俺のいう事を落ち着いて聞いてほしい」
「はい」
普段と違った真剣な益田の態度に葉月は自然と身構える。
「零一ね、車にはねられたショックでちょっと記憶に混乱があるみたいなんだ」
「混乱、ですか?」
「ああ。医者がいうには一時的なものだろうという話だけど、最悪の場合は一生、このままかも知れないって」
益田は水の入っていないグラスを両手で包み込み溜息をついた。
「記憶の混乱って……具体的に……どうなんだ?」
「……今の零一にはここ二年間の記憶がないんだ。すっぽりと抜けている。
……つまり、葉月くん。君が入学した後からの記憶がね」
「つまり、零一は俺のこと……覚えてないのか?」
益田は静かに首を肯定的に振る。
「葉月くん?!」
益田が止める声を振り切り葉月は立ち上がり氷室の病室へと駆けて行った。
氷室の病室のドアを開けると頭に包帯を巻き痛々しい姿で横たわる氷室がぼんやりと視線を向けた。
「……零一。よかった……無事で」
「君は誰だ?見たところ我が学園の生徒のようだが。
所属するクラス、氏名を述べなさい」
「俺、葉月。葉月珪。本当に、忘れたのか?零一?!」
「教師を呼び捨てにするものではない。
それに私は君を知らない。編入生なのか?」
「知らない……俺のこと……」
葉月の目の前に居るのは確かに愛しい相手のはずだった。
けれど、まるで別人が愛しい者の姿を借りてその場に居るような気がした。
「質問に答えなさい。葉月」
「違う、あんたは零一じゃないっ!!」
叫ぶように氷室に言い部屋を飛び出す葉月の頬に熱いものがとめどなく流れる。
視界がぼやけてみえなくなる。
「葉月くん……」
病室から飛び出した葉月に外で二人の会話を聴いていた益田が声をかけた。
「益田さん……俺、俺……」
肩を震わせ涙を流す葉月の背中を益田は黙って摩り続けることしか出来なかった。
「……っつ!!なんなんだ一体……」
氷室は一人病室で意味不明な苛立ちを感じていた。
あの生徒が立ち去る時に一瞬、見せた絶望に満ちた顔が彼の脳裏からいつまでも焼き付き離れなかった。
「葉月くん、気分は落ち着いたかい?」
既に日が傾き人々も少なくなったロビー。
長椅子に座った葉月に缶ジュースを手渡しながら益田が声をかける。
隣に座ると益田は缶ジュースを開け一口飲んだ。
手渡された缶ジュースを両手で包み込み葉月はバツが悪そうな表情を浮かべ言った。
「はい。迷惑かけて、すみません……でした」
「迷惑とは思ってないから。で、これからどうするんだい?
今までのようにいかないかも知れないよ?」
「俺、零一が、無事だっただけでも……よかったとおもうから。
生きていてくれさえ……すれば、他に何も望まない。
……と思ってた」
缶ジュースを持つ手を震わせながらも一生懸命に気丈に笑みを作ろうとする葉月の肩を益田は静かに抱き寄せる。
「けど、俺、信じたい。
いつか零一が、俺のこと……思い出すって」
葉月はぎこちなく口元に笑みを浮かべる。
「俺のこと、零一に……絶対に、思い出させてやる……」
「強いな。君は。だから零一も好きになったのかも知れないな」
益田は立ち上がり葉月の頭をポンポンと叩くように撫でながら笑った。
「俺もしっかりしなきゃな。葉月くんに負けないようにさ」
二人は顔を見合わせて笑いあった。
「また来たのか?君は……」
花束を腕に抱えた葉月が病室に入ってくるなり氷室は呆れ顔で溜息をつき来訪者を迎えた。
いつも通りに葉月は微笑を浮かべ頷くと氷室の横たわるベッドの隣の棚の上に置いてある花瓶に新しい花を生け始める。
淡く真っ白なかすみ草を生ける葉月の背中に氷室はここ数日間、何度か彼に問いかけている質問を繰り返す。
「君はなぜ、毎日来るんだ?
君と私は面識が特別にあるという訳でもない。
しかし、君は毎日欠かさず見舞いにくる。
それはなぜなんだ?」
葉月は生け終わったかすみ草から手を離し彼の質問に答えずに寂しそうに微笑むだけだった。
「おや?葉月くん、来ていたんだね?」
見舞いの本が入った紙袋を手にした益田が病室に入ってくる。
「ほら、零一。暇してるだろうと思ってお前の好きそうな本、買ってきてやったぞ?感謝しろよ〜」
氷室は益田から本を受け取り苦笑いを浮かべる。
「益田、そう言われると感謝の気持ちも半減するぞ?
お前はいつも一言多い。しかし、これは、俺の愛読しているシリーズの最新作か?」
紙袋を開き帯にシリーズ最新刊と記された本を手にした氷室は嬉しそうにページを開いたが直ぐに怪訝な表情を浮かべ本のページを最後のページ、シリーズの既刊案内へと走らせる。
「なぜだ。俺の知らない内にタイトルがこんなに発売されているんだ?!」
「だから言っただろ?お前は過去二年分の記憶が抜けているってさ」
「二年間か……。で、そこに居る生徒もその失った二年間の内なのか?」
頭を抱え込み掠れた声で尋ねる氷室に静かに益田は頷く。
「すまない。一人にしてほしい」
「ああ。また来るからな。零一。葉月くん、いこう」
氷室に軽く手を振り葉月の肩を掴んで益田は病室を後にした。
一人になった病室で床に滑り落ちた小説を手に取り氷室は嗚咽を上げた。
自身の知らない空白の二年間……
それを思いだそうとする度に彼の頭はズキズキと痛んだ。
(俺は思い出したくないのか?)
思い出すのを拒んでいると氷室は痛む頭を押さえながらふと思った。
「フッ……」
氷室は自嘲気味に口元を釣り上げ笑った。
(二年間の記憶がなくとも学園での授業に対してはなんら差し障りはないだろう。
受け持ちの生徒の名は直ぐに覚えれば済む事だ。
問題ない)
氷室はそう結論づけると途端に気持ちが楽になったことに気付いた。
(そうだ。なにも無理に思い出すことはない。
俺には思い出など必要ない。過去を振り返らずに前だけを進んでいくだけだ……しかし……)
本を棚に置いてベッドに横たわり瞳を閉じた氷室は寂しそうに笑う葉月の顔を思い溜息をついた。
「なぜ、彼のことがこんなに気になるんだ……俺は」
氷室は呻くように呟くと眠りの中へと落ちていった。
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「益田さん、これで、いいのか?」
開店前のカンタループでカウンターに居る益田に葉月は声をかけた。
「サンキュー。葉月くん。助かるよ。
うん、これこれ。って、店の手伝いなんてさせちゃって悪いね」
葉月からジンのボトルを受け取り棚に置いた益田は済まなそうに両手を合わす。
「ん、別に。今日、バイト休みだから。それに……一人でいると、俺、なんか……おかしくなりそうだから」
「葉月くん……」
「じゃ、俺、アレも運んでくるから」
なんでもないからとばかりに笑みをつくり葉月は酒瓶が入った箱を取りに倉庫へと歩いていった。
「お疲れ様、葉月くん」
酒瓶の詰まった箱を運んできた葉月は益田にカウンターに座るように言われ座ると益田は彼の前にグラスを一つ置いた。
「喉渇いただろ?特製のレモネード。よく冷えてるから飲みなよ」
レモネードを受け取り一口飲んだ途端に涙を流す葉月に益田は驚き尋ねる。
「どうしたんだい?葉月くん?」
「これ、初めて……ここに……零一に連れて来てもらった時に……飲んだから。懐かしくて」
益田はカウンター越しから葉月の頭を撫で優しく微笑みながら言った。
「大丈夫だ。必ず元通りになる。そしたら、また二人でおいで」
葉月は微笑を浮かべ頷きレモネードを飲んだ。
「じゃあ、気をつけて帰るんだよ。葉月くん」
「はい。ありがとうございます。益田さんも、飲み過ぎには気をつけろ……ください」
だいぶ元気になった相手に益田は片目を閉じて彼の頭を小突いた。
「飲むのも仕事の内だからね」
「じゃ、おやすみ……なさい」
店出口まで出てきて手を振る益田に手を振り返して葉月は独り氷室のマンションへと帰っていった。
エントランスへ着くとどこか氷室に似た風貌の少年が紙袋を手に提げてエレベーターから降りてきた。
「こんばんは」
降りてきた少年はハキハキとした口調で葉月に会釈をし挨拶をした。
「……こんばんは」
葉月も彼につられて頭をさげる。
「ここに、住んでるのか?」
年齢的に葉月より年下に見え氷室の面影を感じる相手に興味を持った葉月は話しかけた。
「いえ。僕は別の場所に住んでいます。こちらには伺ったのは従兄の着替えを取りに来るようにと母に頼まれたので赴いたまでです」
「従兄?」
「はい。入院しているんです。あ、では僕は急いでいますので失礼させて頂きます」
「従兄の名前……教えてくれないか?」
見知らぬ相手にいきなり尋ねられ怪訝そうな表情を浮かべつつも少年は答えた。
「氷室零一。零一兄さんです。それでは」
紙袋を手に足早に駆け去る少年の背中に葉月は呟いた。
「このままだと、零一に迷惑、かかるな……」
俺と零一の関係を知られる訳にはいかないから……
その夜、葉月は荷物を纏めて氷室の家を発っていった。
「直ぐ、元に戻るから……」
ホテルにチェックインし通された部屋のベッドに寝転がって天井を仰ぎ見、葉月は自身に言い聞かせるように呟いた。
「ねえ。葉月くん。知ってるかな?」
授業が終わり早速、氷室の病院へと向かおうとする葉月は突然声をかけられて振り返った。
声の主は彼と同じクラスの生徒。
成績優秀、気だてもよく男子生徒達からの人気もあり教師からも一目置かれていた。
たまに氷室が氷室学級のエースと彼女の話題をする度に葉月は機嫌を悪くしたものだった。
「なにをだ?」
彼女は周囲に視線をぐるりと向けると
「ここでは、ちょっとね。ね、ついてきてくれるかな?」
葉月の答えを待たずに半ば強引と受け取れる態度で彼女は前を歩き出す。
氷室の見舞いに一刻でも早く行きたかった葉月は渋々ながら彼女の後へついていった。
屋上へとつくと彼女は葉月の目を真っ直ぐ見つめて言った。
「氷室先生ね、理事長に辞表出したんだって。あの事故がある前に」
「辞表?教師を……辞めるのか?」
有り得ないから。と葉月は否定的に静かに首を振った。
”教師という職業を天職と感じている。”
そう心の底から楽しそうにいつも言っている氷室がまさか……
「葉月くんが原因なんだよ!」
突然キッと彼を涙目で睨みつけ彼女は続ける。
「氷室先生ね、葉月くんとの事が噂になったんだ。で理事長が氷室先生を呼んで聞いたの。
別に辞めさせるつもりはなかったんだって。
でもね、氷室先生は葉月くんの事を庇って辞めるって……」
「そんな……俺、知らなかった」
肩を震わして頭を抱え込む葉月に彼女は叫ぶように言った。
「氷室先生をこれ以上、苦しめるのはやめてっ!
氷室先生が記憶を無くしたのも葉月くんとのこと苦しんでいたからなんだよ……」
「零一は俺を……忘れたかったのか」
葉月の耳には既に彼女の声が届いていなかった。
ただ氷室を苦しめていた、それに気付いていなかった自身の愚かさを呪い続けるだけだった。
ゴメン、ゴメン……ナサイ
その夜、葉月はホテルの部屋から電話をかけた。
「あ、母さん。俺、そっちに行くから。
なぜって、うん、別に。
やっぱり、俺、母さんたちと……暮らしたいから
いつまで経っても、俺、子供だな。
うん、パスポートもある、問題ない。
ああ、それじゃ」
翌日、スーツケースを手に葉月は氷室の入院している病院へと向かった。
「誰だ?また、君か」
読んでいた参考書から視線を葉月に向け氷室は溜息をついた。
「どうした?って……君、学校はどうしたんだ?」
明らかに平日であり今、ここに居るべきではない生徒に対し氷室は静かに尋ねる。
「俺、今日……日本を発つんです。で、あなたに……最後のお別れを……言いにきたんだ」
「そうか……」
氷室はそれだけを呟くと葉月から背を向けた。
「それじゃ、元気で……いてください」
寂しそうに笑みを浮かべ葉月は踵を返しスーツケースを持ち上げ病室を後にしようとした。
今にも崩れて泣き出しそうな葉月の寂しげな微笑。
瞬間、氷室の失われた記憶のピースが繋がっていった。
「ま、待ってくれっ!」
氷室の突然の叫ぶような制止の声に葉月は振り向いた。
彼の視線の先には頬から幾筋もの涙を流す氷室が映る。
「零一?思い出したのか?」
「”思い出した”?俺はは君を忘れていたのか?
すまなかった。
珪、俺の傍から消えないでくれ。君を失いたくないんだ」
思わず駆け寄る葉月に子供のようにしがみつく氷室を彼は力の限りに抱きしめる。
「ありがとう。けど、俺いかなきゃ……いけないから。
零一を、苦しませたく……ないから。
俺、まだ、大人じゃ……ないから。益田さんみたいに……零一を守れない。
俺、零一に、守られているだけじゃ……嫌なんだ。
だから、今は……さようならだ」
「守られているのは私の方だ、珪。君の居ない生活に俺は耐えられない。だから行かないでほしい」
氷室からゆっくりと身体を離しながら葉月は瞳に涙を浮かべ静かに微笑んだ。
「俺、あなたを守れるようになったら……
必ず迎えにくるから……
王子は姫を必ず……迎えにきます。
……約束」
葉月は氷室の唇に静かに唇を重ねると病室から一度も振り返ることもなく出ていった。
「珪……」
氷室は退院後、理事長の必死の説得もありはばたき学園で教師を続けた。たまに体育館裏へ赴いては葉月の可愛がっていた猫の世話をする。
葉月と彼の噂も影を潜め穏やかな学園生活へと戻っていった。
数ヶ月が経ち卒業式を迎え彼が一年生の時から受け持った生徒達を送り出し彼は独り体育館裏へと歩いていった。
ふと、学園内外れにある普段は閉ざされている教会の扉がうっすらと開いているのに気付き彼は近付いていった。
静かに扉を開けると噂に聞いていたステンドグラスが輝き彼の姿を七色に照らし出した。
彼が前へと歩みを進めると教会の椅子に誰かが座っているのに気付いた。
真っ白い表紙に金字でドイツ語らしきタイトルが印字されている絵本を抱え眠っているその人物。
別れた日から彼が逢いたくて仕方がなかった相手がそこにはいた。
「こんなところで眠っていると風邪をひくぞ?葉月」
彼は視界が涙で歪むのに耐えながら眠っている相手に声をかけ身体を揺さぶった。
「れ……れいいち?」
瞳をゆっくりと開いた葉月は直ぐに嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「珪……」
彼は葉月の身体をしっかりと抱きしめた。
「迎えにきたのは、俺だったんだけど……なんか、逆だ」
少し不貞腐れる相手に氷室は言った。
「いや、君は約束を守ってくれたんだ。
それだけで充分だ。
もう二度と俺の傍から消えないでくれ。
もう二度と君を失いたくはない。
君を愛しているんだ」
「零一、それ……俺が言おうと……してた」
不満そうな顔をするも葉月は笑顔を浮かべて氷室の腕に頭を埋めた。
俺も、あなたのことを……愛してる
もう、離さないから……ずっと一緒……」
ステンドグラスの輝きが彼らを祝福するように彼らを照らし続けていた。
END
はい!終了!おしまいっ!
勢いで始めた葉×氷シリーズ、如何でしたでしょうか?
裏に持ってきた割には全く裏描写なかったです。
スミマセンっ!
けど内容が内容なんで……(汗)
で、一応これでストーリー的に区切りはつけました。
後は番外編とかはあるかもですが。
では、ここまでお読み頂き誠にありがとうございました!
次作はラブラブ幸せいっぱいを目指します♪